2016年8月13日土曜日

2016年夏に観に行った映画の感想文

2016年の夏は、5本映画見てきました。個人的ランキングとネタバレ含むだらだらとした感想です。
見てきたのは以下:

  • 「シン・ゴジラ」
  • 「インディペンデンス・デイ・リサージェンス」
  • 「帰ってきたヒトラー」
  • 「貞子vs伽倻子」
  • 「ガルパン 劇場版 極上爆音上映会」

ネタバレもありますので注意してください。


2016年6月6日月曜日

就職してからずっと感じてた会社での「成果」や「結果」についてのモヤモヤ

22歳で大学卒業して会社(受託、あるいは客先出向/常駐メインのシステム開発下請け→Webサービス企業→一年の無職を挟んで情報セキュリティ系)という組織に入って10年以上経ったが、どうも評価面談での「成果」や「結果」について、微妙にモヤモヤしてたのがあった。

それが、最近少し氷解したのでメモ。

就職してからこちら、自分が「成果」「結果」として言える・言いたくなるモノと、会社が評価面談で「いやいや、君、あれもこれもやったでしょ、あれが成果であり、結果でしょ」と言ってくれるモノが、いつもいつも食い違う。ずれてる。
会社が違っても、評価面談のたびに、そんなやり取りがある。

自分の中では、仕事上必要に迫られて実施した作業は全て、「自分から発案したのではないので、自分の成果ではない、結果ではない」という感覚がずっとあった。
そのため、たとえその途中で自分のアイデアや考えなどを元にしていろいろ試行錯誤しても、大本は会社・組織ドリブンなため、どこか、自分の成果・結果として吹聴できない、という気後れがあった。

じゃあ自分が自信をもって成果や結果だと言えるのはどんなものかというと、自分の直感や感覚に基いて、その作業の目的から自分が発端で、嗅覚に基いて自分で全てを差配して、作品として作り上げたものになる。作品としてでなくとも、何らかの第三者評価は得られたもの。それが自分の中での成果であり、結果である、と、それだけはいつも、子供の頃から確信できてた。

例えば1年間ニートしてたときの技術ブログ、魂と直感を塗り込めて調べあげて、話の筋を必死で組み立てた技術ブログが2本、はてなブクマで3桁行った。まぁ、今時技術ブログでしっかり調べたもので内容もしっかりしてればいまどき、はてなブクマ3桁は普通にありえるが、しかし自分がそのような記事を書いて、しかもある程度ポジティブなブクマコメントも貰えているのは、人生に自信を与えてくれた成果である、と言える。
ブクマの数ではさほどでもない記事であっても、たまに「マニアックで役に立った」という趣旨のブクマコメントをもらえると、「してやったり」という感じで嬉しくなる。こういうのを「成果」や「結果」として喧伝したくなる自分がいる。

ソフトウェア開発にからめれば、業務で作ったものはどうしても、業務上のルールに従ったり、命名規約や構成・設計など、いろんなバランスを取ったものになる。そのため、自分の感覚・直感に基づいたバランスではないため、なんとなく「作品」として確信を持てない。「共同作品」としてなら、まぁ・・・。
それよりは、自分でゼロから一切合切作ったソフトウェアの方が、「成果」として喧伝したくなる。とはいえ、自分しか使わない自己満足な出来なので、「結果」としてはよろしくない。ただ、よろしくない、ということをある意味自信持って受け入れることは、できる。それは甘えかもしれないが、しかし自信のうちだろう。

結局のところ、自己表現として自分の世界を自分で精緻に組み上げたもの、それが自分の中では成果であり、それが受けた評価は結果として、良かろうと悪かろうとある種の甘えと自信を持って受け止められるのだろう。
ソフトウェア開発は、自己表現の方法の一つに過ぎない。最近の自己表現としては、技術ブログや、このブログなど、文章としてのほうが多い。

会社としての仕事は、どうしても「稼ぎを得るための手段」という枠内になってしまい、そこに自分の人生の目的をうまく持ち込めない。特に、最近のITサービス業で重要となるWebサービスの開発はそうで、どうにもこれがうまく、自分の中での成果の質とマッチしない。それが組織として必要なら、やるが・・・しかし、どうしてもビジョンを示すとか、そうしたリーダーシップについて違和感が消えない。端的にいうと、「そうしたことがしたくない」。自分の中で、そのような動機が空っぽなのだ。なんというか、モチベーションというか興味が湧かない。24時間そのことを考えられない。

一方でお客様向けのWebコンテンツを書くという仕事を最近少しやってるのだが、こちらは全く違和感なく受け入れられ、自発的な動悸も湧くし、自分の中の成果の質ともマッチする。ようするに、24時間そのことを考えることができる。

自分がハイになってアツく語れるのも、マンガや美術作品などでそうした、作者個人の世界観が緻密に組み立てられ、塗りたくられ、内容的にもラッキーな事に自分にマッチしたものになるが、そうした作品についてはいくらでも語りたくなる。

ビジネスリーダーが自分のビジネスについていくらでもアツく語れるのと同じように、私は、自分が興味を持って調べて記事として書き上げた内容や、これから書きたい内容についてアツく語れる、語りたい。

まぁ、その辺を今後はうまく、会社に寄せてければなぁ、と、そんなことを考えてる。

「置かれた場所で咲きなさい」の考え方(その2)

「置かれた場所で咲きなさい」の考え方(その1) からの続きです。

前回は「そもそも人は、本当にどこでも咲けるほど強いのか?」というのについて書いたんですが、よくよく考えると、「咲く」という表現について、やっぱり注意しないとダメだなーと感じます。



「咲く」という表現を誤用すると、以下のような悪用ケースが発生します。


  • ブラック企業の上司が、部下を良いように使い捨てするために、置かれた環境でまず結果を出さないとどこに行ったって役に立たんぞ・・・と脅すためにこのフレーズを持ち出す。
  • 企業など、組織の構成員向けの研修で、現場や環境に不満を言う前に、まず自分で動こうとしないと駄目だよ・・・と、その組織にロックインするために、脅すためにこのフレーズを持ち出す。


ようするに、環境を用意して、支配する側が、そこから逃げ出さないようにするため、「まずこの環境で必死になって働いて成果を、結果を出せ。それができないのは人間として劣ってるので、この環境から逃げ出したってどうせ同じことになる。」と脅すのに使うわけです。

これ、何が間違ってるかというと、そもそもこのフレーズは(その1)でも書いたように、人間が人間に対して命令のニュアンスで発するものではないからだと、私は考えます。
信仰を持った・・・まぁ、持ってなくても問題はないのですが、自分が自分に対して説き、問いかけるためのものです。信仰を持っている人なら、自分の中の神仏から説かれ、問いかけられるものだと思うのです。

また、「咲く」の内容がやはりおかしいです。何故かと言うと、会社やその組織が求めるもの・・・つまり、「人」が決めてしまってるからです。

そうではない。このフレーズが出てきたのが、キリスト教の方からだとすれば、これはやはり、「咲く」の内容は人が決めるものではなく、神しか分からないものだと考えます。人の決めた尺度で「咲く」の内容は決められない、その人が本当に咲けたのかどうかは、その人自身と神さまにしか分からない。
だからこそ、このフレーズは自分が自分に対して発し、説き、問いかけるものだと思うのです。

だからといってその人が自分勝手に「私は自分が幸せだから~」と好き勝手しても、それはさすがに違うと思います。そこはやはり、良識の範囲で、他者を笑顔にして、幸せにするために動けるようにしたいところであります。

こんな具合に、宗教を元ネタとしたフレーズが人の尺度で良いように使われてしまうと、悪用されてしまうのもあるんですなぁ。恐ろしいことです。

それにしても・・・真面目な人が真面目に働こうとしてるのに、このフレーズを人の尺度で脅しにつかおうなんて、おこがましいにも程があるよなぁ・・・。そんな場所で、無理して「咲く」必要は無いんじゃないかなぁ、とも思ったり・・・。もっと神仏に愛されてる場所で咲こうぜ!(ドコだよ

「置かれた場所で咲きなさい」の考え方(その1)


一時期、「置かれた場所で咲きなさい」というフレーズが流行りました。
「置かれた場所で咲きなさい」・・・つまり、まず自分が今の場所で出来ることをして、他者貢献して自信と居場所を作るということなんだと理解してます。実際、流行りの元となった書籍も読んでみましたが、仏教勉強中の自分からも「なるほど」と納得できる内容で、この本自体には特に異論はありません。



キリスト教でも仏教でも似たような教えはあり、人によっては、どんなに迫害されても、それは神が自分の信仰を試しているので苦難に負けてはならない、というロジックで心の支えとする場合もあります。

しかし、これが例えば会社の上司から部下に向かってなど、「咲きなさい」の意味を人間の尺度を前提にして「会社や組織で結果を出すこと」として説くと、途端に違和感が出てきます。

この違和感について、まず、そもそも「置かれた場所で咲きなさい」について、本当に人間はどこでも「咲ける」ものなのか?という疑問が出てきたのですが・・・。

人はどんな環境でも「咲ける」ほど強いのか?


世の中の動植物は、実にいろいろな場所で、いろいろな生存戦略を組み立てて一生を送ってます。例えばアフリカのライオンを、いきなり南極大陸に移してきて、「置かれた場所で咲きなさい」とばかりにしても、ライオンが人間の知性を持っていたとしてもうまく行きませんよね、きっと。

人間は知性があるし理性もあるじゃないか・・・となっても、人間の精神はそれころ様々なはず。何もかも全部丸めて、「置かれた場所で咲きなさい」というのはあまりにも暴力的。親が虐待するケース、パートナーがDVなどで暴力を振るってくるケース、そんな環境でも「置かれた場所で咲か」なくてはイカンのですか?

ちゃうやろ、と。

ホンマに人間の知性を信じるなら、「こりゃアカン」と思ったら、一度撤退して、アプローチを考えなおしたり戦略を立て直すのだって立派な知性のはずです。

そもそも、「咲き "なさい"」という物言いが気に食わない。これは誰が誰に言っとんねん? 「置かれた場所で咲け、でないとお前は他者貢献できない、価値を認めてもらえないぞ」という脅しですか?

んなわきゃねーだろ。

人が生きて、飯食ってクソして寝て起きて飯食ってクソして寝て・・・るだけでも、奇跡だろーに。 それでも世知辛い世の中、せめて、「こりゃアカン、もう逃げたほうが良い」と思って、精一杯の生存本能と自分の直感とか経済状態とか諸々秤にかけて、撤退しようか迷ってる子羊に、神でも仏でもねー同じ人間が、「置かれた場所で咲け、逃げるな、戦え、前を見ろ」って言う資格なんざねーだろ。

このセリフは、人が人に説教するためのセリフじゃねーだろ。信仰を持った人間が、自分の中の神とか仏とか宗教の教えと自分の中で対峙するときに、自らに問いかける、自己の中で完結する語りかけだろ。物知り顔の他人に説かれるものではない、自分の中で、自分に説くのだ、問いかけるのだ。

だから、「置かれた場所で咲かなくったっていい」んだよ。まず自分が生き延びること優先でいいんだよ。他者貢献はそれからだ。自分の安全を確保しろ。疲れたら休んでいい。逃げていい。プライドなどかなぐり捨てて土下座してでもいい。「助けて」と叫ぶんだ。日本が嫌なら、どうにかして海外に逃亡してもいいんだ。

昔は、逃げようとしても逃げられなかった。だから、「置かれた場所で咲くしかなかった」。でも、今なら逃げれる。いろいろ、逃げる手立てはある。それは人間の歴史と、知性が積み上げてきた、享受してよい、利用してよい知恵であり法律でありシステムであり社会制度なんだ。それのおかげで、今ならこう言えるんだ。「置かれた場所で咲けなければ、場所を移せ、逃げろ、自分が枯れる前に、まず自分が咲ける場所を探せ」と。

人生は全て「死」という共通のゴールに向かって、一秒も休まず動き続ける。そのゴールまでに、どれだけの景色を見れるか、風景を見れるか、人の感情と向き合えるか、そして何を自分の中に入れて、出して、ゴールに向かう途中を楽しめるか。

その選択肢が多様化した今、神でも仏でも無い人から、「置かれた場所で咲け」などと、自分自身の人生について説教されたり、それを真に受ける必要などどこにもない。

逃げて良いのです。逃げて、隠れて、休んで、ひたすら寝て、休んで、回復したら、また旅路に戻ろうぜ。

で、書籍に戻ると・・・


実は書籍では、上記のような点もちゃんとフォローしてるんですよ。著者はキリスト教の方ですが、神はその人が乗り越えられないほどの試練は与えず、逃げ道も用意してくださっているとちゃんと書籍に書いてあります。知恵を振り絞れば乗り越えられるし、よしんばそれに失敗しても、神は逃げ道を用意してくれる、つまりその人を愛してくれてるわけです。

その2,「咲く」の尺度について、に続けます。
はじめまして、仏教勉強中のプログラマのmsakamoto-sfです。

こちらでは、仏教やキリスト教など宗教を勉強してて、自分が感じたことなど、書いてみます。

宗教に関して興味を持ってから数年の若輩ですが、ストレスが多い現代日本社会で生きていくためのヒントとか、感想とか、書いていければと思います。
その他、宗教にかかわらない日常での話題も書いていく予定です。

技術系の話題は他のサービスで書いてますが、あちらは技術オンリーで、こちらは宗教や日常などの話題と、住み分ける予定です。

叫びとか愚痴成分多めになりそうです。
書いてる途中でノリが変わってきて、文体が変わることもあります。
以上、ご容赦ください。

どうぞよろしくお願い申し上げます。